2024.11.08 NEW 著者のコラム ブラジル・ポルトガル語に魅せられて #2 日系ブラジル人について 著者 田町 崎(たまち さき) (前回の記事はこちら)#1 ブラジル・ポルトガル語を学び始めた経緯 こんにちは。今回は、私がお世話になった日系ブラジル人の歴史変遷について、ざっくりですがお伝えできればなと考えています。最後まで読んでいっていただけると嬉しいです。 ブラジル国内だけで270万人も住む日系人 まずは、海外にいる日系人はどの程度いるのか明らかにしていきましょう。外務省によると、海外日系人数は2023年10月の時点で、全世界で約500万人です[ i ]。そして、この調査で驚かされるのがブラジル国内にいる日系人の多さです。実は何と、ブラジルはこのランキングでぶっちぎりの第一位。過半数を占める270万人もの日系人がブラジル国内にいると推計されているのです。 ガランチード;「保証付きの人材」/「信頼できる人材」 では、その歴史を見ていくこととしましょう。ブラジルへの本格的な移民は1908年にスタートしました。神戸から出港した笠戸丸の781名を皮切りに進められたこの移民政策は、のちに規模を拡大。1926年-1935年には年間1万人以上の日本人が海を越えてブラジルに渡ったとされています。入植後、彼らの多くは原生林を切り開き、農地を開拓していきました。 そして、その実直に労働に勤しむ彼らの姿勢がブラジル国内で評価されていきます。日本人移民は「garantido(ガランチード;保証付きの人材/信頼できる人材)」と呼ばれ、ブラジル社会から一目置かれる存在となっていくのです[ ii ]。 記録に残る足跡 この「ガランチード」は誇張した表現でもリップサービスでもありません。実際に、日本人移民の多くはコーヒー産業に従事していったとされ、さまざまな文献で彼らの足跡が記録されているのです。ネット上でも、次に挙げる小売コーヒーメーカーをはじめとしたデータがいくつも出てきます[ iii ]。 小売コーヒーメーカーで業界最大手の3coraçõesグループのHPより。1959年に「Rokuro Yoshiokaさんという日本人移民がYOSHIOKA & CIAを設立した」との説明があります。 コーヒー産業に革命をもたらした日本人 では、ブラジルで高く評価された方の一人として、この記事では西村俊治(しゅんじ)さんを紹介していきたいと思います。 1910年、西村さんは京都に生まれました。工業高校を卒業後、1932年、21歳の時に思い切ってブラジルに渡航。そこで西村さんはコーヒー農園で働きました。その後、ほどなくして結婚。農機具の修理・製造に従事し始めます。 コーヒー自動採集機「K-3」。車輛の上部に人が乗っているのが確認できます。 西村俊治さん。若い頃、借金取りの取り立てに追われる日本での生活にうんざりしてブラジルに行くことを決意したそうです。彼は、Jactoグループの運営以外にも、若い技術者を育てていくことを目的とした職業訓練学校の設立をするなど、ブラジル社会の発展に力を注ぎました。そんな西村さんの教えは「コーヒーよりも人を作れ」だったとか。 1948年にはサンパウロ州の小さな町に農機具メーカー「Jacto(ジャクト)」を構えます。ここで、西村さんの仕事に対してのひたむきな姿勢が評判を呼び、ブラジル国内で徐々に認められていくこととなっていきます。 ブラジルに渡って47年たった1979年。ついに西村さんの情熱が大輪の花を咲かせます。この年、西村さんは世界初のコーヒー自動採集機「K-3」を発売したのです。コーヒーの実を一粒一粒摘み取っていく「手摘み」は実はかなりの重労働でかつ多くの人手を必要としますが、西村さんはその作業を機械化。ブラジルのコーヒー産業に革命をもたらすこととなったのです。 目覚ましい活躍を見せた日系人たち 実際、西村さんをはじめ、日系人の活躍はブラジル国内で十二分に認知されており、他にも、二宮正人さん(弁護士)、大田ケイコさん(元ブラジル下院議員)、吉井喜美子さん(ロンドリーナ・グアルダ・ミリン母子保護協会会長)など、数え上げていくと枚挙にいとまがありません[iv]。 戦前から戦後にかけてのブラジル国内の日系人のストーリーについてはまだまだ話は尽きませんが、今回はここまでにしておきたいと思います。 世界最大規模の日本人街「リベルダージ」 あっ。そうそう。一つ大事なことを言い忘れていました。ブラジル旅行に行った際には「リベルダージ」に立ち寄ってみて下さい。リベルダージとは、サンパウロの中心部にある「日本人街」で、戦前に海を渡った日本人のコミュニティーがルーツになってできた街です。 ブラジル旅行の際は、リベルダージも含め、日本円はもちろんのこと米ドルでさえもほぼ通用しません。ブラジルの通貨であるレアルのご準備をお忘れなく。 さすがは日本人街です。街を散策すると「鳥居」や「灯籠」が見られるのです。こういったものに海外で出くわすと、なぜかノスタルジックな気分に浸れてしまいます。 リベルダージではブラジル・ポルトガル語は必要なく、日本語だけでも十分に通用します。美味しい日本食レストランもあります。焼肉定食を食べることだってできますよ。 1990年代以降の日系人 では次に、時代を一気にスキップして、私との縁が深い1990年代以降の日系人についてフォーカスしていきたいと思います。 1980年代後半、ブラジル経済はインフレに吹き荒れ、不況の真っただ中にありました。多くのブラジル人たちは仕事にあぶれ、よりよい環境を求めて他国への移住を選択せざるをえない状況に追い込まれていました。 一方、地球の反対側に目を向けてみると、日本はバブル景気に沸き立っている最中にありました。この状況下にして、ある法律が施行されます。それは1990年6月の入管法の改正の施行です。これにより、「定住者」ビザの在留資格が創設され、日系2世、3世、またその家族につき、日本国内での就労が合法化されることとなったのです。 「Decasségui(デカセギ)ブーム」 この法律の改正が日本社会に大きなトレンドを生み出します。ブラジル本国の不況が重なったことで、堰を切ったかのようにブラジルにいた日系人たちが仕事を求めて日本へとやって来ることとなったのです。いわゆる「Decasségui(デカセギ)ブーム」です。 地図内の水色はブラジル人のコミュニティー(ブラジリアンタウン)のある県を示したものです。これを見ると関東圏や中部圏に集中していることがわかります。なかでも、大泉町(群馬県)、保見団地(愛知県)、浜松市(静岡県)のコミュニティーは有名です。 コミュニティー内ではブラジルの食品が買えたり、大人を対象とした日本語教室が開かれたりしている場合があります。 ピーク時は31万人もの在日ブラジル人が記録される このブームにより、在日ブラジル人の人口は急増。1989年には1万4千人程度でしたが、1991年には11万人を超えます。バブル崩壊後にあってもこのブームは冷めやらず、在日ブラジル人の数は右肩上がりに増加していくのです。 ピーク時はリーマンショック前の2007年の31万人。彼らの多くは自動車をはじめとする製造業に就き、日本経済を下支えしたと言われています。リーマンショック後は増減を繰り返し、2023年6月末時点での在留ブラジル人はおよそ21万人です[ v ]。 これに付随して。日本に定住する日系人に迫ったドキュメンタリーを紹介したいと思います。映画『孤独なツバメたち~デカセギの子どもに生まれて~』 リーマンショック前後の浜松市に住む日系ブラジル人の若者たちに迫ったドキュメンタリーです。日系ブラジル人としてのアイデンティティの置きどころに思いあぐねる様子や、家族、仕事、生活面での悩みを吐露する彼らの姿を知ることができます。「迷い、不安、覚悟、さみしさ、反発」――日本に定住する若年層外国人のメンタリティーをとらえた貴重な作品です。 今回はここまでです。最後まで読んで下さり、誠にありがとうございました。次回はブラジルと周辺諸国の情勢について書いていきたいと思います。 ☕気分転換の音楽☕ 私は音楽が大好きです。国/性別/ジャンル問わず聞いています。以下、気分転換の際にでも聞いてもらえると嬉しいです。 Carlos Vives(カルロス・ヴィーヴェス)コロンビアが生んだ音楽界のスーパースターです。出 身:サンタマルタ(コロンビア)曲 名:Volamos por ti(2024年)ジャンル:ポップこんなアーティストが好きな人におすすめ:Bruno Mars、Maroon 5、OneRepublic、Charlie Puth、Ed Sheeran、Sheppard 補足 コロンビアの歌手となると、やはり日本ではShakira(シャキーラ)が特に有名ですが、ラテンアメリカのエリアではカルロス・ヴィーヴェスの人気がダントツでNo. 1と言えるのではないでしょうか。彼は老若男女問わず愛される世代を超えたスーパースターなのです。 それもそのはず。音楽界で長く活躍してきたキャリアもさることながら、音楽に関して彼は非常に柔軟でさまざまなジャンルの曲に挑戦し続けているからなのです。若いアーティストとの交流にも積極的で、シャキーラだけでなく、Wisin(ウィシン)、Daddy Yankee(ダディー・ヤンキー)などともコラボすることで若年層の音楽ファンのハートをも鷲掴みにしています。 習得に苦しんできた自身の経緯から、ブラジル・ポルトガル語の学習で苦悩する方々の気持ちは痛いほどにわかります。今回は御縁に恵まれ、ベレ出版にてブラジル・ポルトガル語の語学書を出す運びとなりましたが、この語学書はそういった方々に対し、少なからずのお役立てができればという思いを込め作成したものです。内容につき、書店等で手に取ってご覧いただけると嬉しいです。 また、ブラジル・ポルトガル語は「あらたな外国語にチャレンジしてみたい」と考える方にとっても、おすすめです。あまり知られてはいませんが、ブラジル・ポルトガル語は文法構造上、英語と似通った点が多く、英語を学んできた方にとっては非常に学びやすい言語です。英語の知識を活かして、ブラジル・ポルトガル語にチャレンジしてみてはいかがでしょうか。このnoteの記事がそのきっかけになれるのであれば大変嬉しく思います。 (次回の記事はこちら)#3 ベネズエラ情勢 この記事を書いた人:田町 崎(たまち さき)翻訳者。南山大学経済学部経済学科卒業後、人材派遣会社で日系ブラジル人たちとともに働く。これがきっかけとなりブラジル・ポルトガル語の勉強を始め、のち、市役所/警察/病院などで翻訳と通訳を経験。その後、京都外国語大学でブラジル・ポルトガル語を専攻し同大学院修士課程を修了。院生時には外務省留学プログラムに参加し、メキシコシティにあるメキシコ国立自治大学(UNAM)でスペイン語を約1年学ぶ。海外メディア報道を通じて主には中米/南米の情勢を研究している。