2025.02.14 NEW 著者のコラム ことばは政治的 第2回 著者 大嶋 えり子(おおしま えりこ) 第2回 人々の日常への介入 (前回の記事はこちら)第1回 女性を言い表すことば 目次フランスは何語の国?パリ五輪を振り返ってアカデミー・フランセーズ地域語の撲滅 フランスは何語の国? フランスは何語の国でしょう。フランス語、という答えが自明のように思われるかもしれません。それはたしかに一つの正しい答えです。しかし、フランス本土だけでも、アルザス語、バスク語、ブルトン語、カタルーニャ語、コルシカ語、オイル諸語、オック諸語などがあります。さらに海外領土に目を向けると、さまざまな言語が話されているのみならず、公文書では使用されるもののフランス語がほぼまたはまったくできない住民もいます。 とても豊かな言語環境のように思えますが、フランス語が少なくとも現在のフランス本土で支配的になったのは、国家権力と深い関係があります。現代フランス語の源流にはオイル語の一つがありますが、王権に支持されたことで広く話されるようになったという歴史的経緯があります。1539年になるとヴィレール=コトレ勅令をフランソワ1世が発し、フランス語の使用が多くの公文書で義務付けられました。この勅令は現在でも効力を持つ最古の法令です。ここからさまざまな形で国家権力が、人々が使用することばに介入していくことになります。 パリ五輪を振り返って 急に無関係な話と思われるかもしれませんが、2024年のパリ五輪の開会式を見た方はいらっしゃいますでしょうか。開会式は、開催国の文化や歴史を紹介するのが定番となっており、2024年の開会式でも誰がどのように登場し、どのようなパフォーマンスを披露するのか大きな注目を浴びました。 話題となったパフォーマンスの一つに、数か月前から出演が噂されていたアヤ・ナカムラの歌唱がありました。最もストリーミングで再生回数の多いフランス語で歌う歌手のナカムラは出演確実と見られていましたが、一部の保守政治家などはナカムラの書く歌詞はくだけたフランス語で、開会式にはふさわしくないと主張していました。ところが、開会式では政府庁舎などの警備を担当する共和国親衛隊の楽団とともにナカムラは、フランス学士院を背景に楽曲を演奏しました。ヒップホップなどのカウンター・カルチャーを受け継ぐナカムラと、フランスの正統な権威を持つ共和国親衛隊とフランス学士院の異色な組み合わせの演出となったのです。 アカデミー・フランセーズ 特にここで注目していただきたいのが、フランス学士院です。5つのアカデミーにより構成される組織で、ここで重要なのはその一つであるアカデミー・フランセーズです。 アカデミー・フランセーズは1634年に創設され、今でも活動しているアカデミーです。宰相リシュリューにより、フランス語の繁栄のために創設されました。具体的には、フランス語の文法を明確にし、辞書を編纂することなどが使命です。実際に、1694年の第1版から2024年に完成した第9版まで辞書が出ており、すべての版がオンラインで閲覧できます。また、アカデミー・フランセーズは「正しいフランス語」をたびたび示しており、たとえば2020年にはcovid 19が広く男性名詞として使用される中、女性名詞であるという見解を示したことで関心を呼びました。 つまり権威ある機関が、人々が日常的に使用することばに介入することがあるのです。当然ながらアカデミー・フランセーズは、前回お話しした職業を表す名詞の「女性名詞化」問題に興味を持っています。長年にわたり保守的な立場を堅持し、「女性名詞化」に反対していましたが、2019年になりついに賛成するようになりました。 地域語の撲滅 アカデミー・フランセーズが「正しいフランス語」の普及に注力する一方で、フランス語そのものの普及が国家の政策として進められました。革命期の初期にはフランス語が話せる者は1割程度だったと考えられます。こうした状況から革命家たちは、地域語では革命の理念を充分に表せず、「不可分」な国を作り上げるうえで地域語は支障になると考え、地域語の撲滅に取り組むことになります。 地域語に対する差別はその後も続き、19世紀の終わりになると、公教育から地域語を完全に排除する法律が制定されます。休み時間でも子供たちは地域語を話してはならず、地域語を話した子供は教師から暴力的な罰を受けることもありました。 2010年の国連教育科学文化機関(UNESCO)による『消滅危機にある言語の地図』では、ブルトン語をはじめ複数の言語がフランスで「重大な危険」にあると分類されました。なお、危険度の表示として、低いものから「安全」、「脆弱」、「危険」、「重大な危険」、「極めて深刻」、「絶滅」があり、日本ではアイヌ語が「極めて深刻」に分類されています。 フランス政府も地域語の地位を見直すようにはなっています。2008年の改正で、フランス憲法に「地域語はフランスの文化遺産に属するものである」という条文が付け加えられました。ただし、「重大な危険」にある地域語を多数抱えている状況に鑑みれば、遅きに失した感はありますね。 図 1 UNESCO『消滅危機にある言語の地図』(https://unesdoc.unesco.org/ark:/48223/pf0000187026より) 大嶋 えり子(おおしま えりこ)慶應義塾大学経済学部准教授。東京都出身。博士(政治学)。早稲田大学政治経済学術院助手、金城学院大学国際情報学部講師を経て現職。慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、証券会社に勤務。退職後、早稲田大学大学院政治学研究科に進学し、修士課程でフランスの極右政党の研究に取り組む。博士後期課程ではフランスの移民政策と植民地の記憶をテーマにした博士論文を執筆。主著に『ピエ・ノワール列伝』(パブリブ、2018年)、『旧植民地を記憶する』(吉田書店、2022年)、大嶋えり子・小泉勇人・茂木謙之介編著『遠隔でつくる人文社会学知』(雷音学術出版、2020年)がある。