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  • 著者のコラム

夢みる近代小説と異言語経験Ⅱ

著者 茂木 謙之介(もてぎ けんのすけ)

(前回の記事はこちら)
Ⅰ 明治大正文学とエドガー・アラン・ポー

Ⅱ 泉鏡花とハウプトマン

近代日本の「幻想文学」と異言語文化・文学との接触をめぐる本記事で次に紹介しますのは、同ジャンルのスーパースター・泉鏡花(1873~1939)です。『高野聖』や「眉かくしの霊」など日本を舞台としたテクストの多さから「日本的な作家」というイメージの強い鏡花ですが、明治から昭和という外国語文化・文学と日本文化が密接にかかわった時代に活躍した以上、それらとの関係なしには考えることが出来ません。本記事では鏡花の翻訳経験を起点に考えてみたいと思います。

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泉鏡花

 まずみておきたいのは、第二高等学校(現在の東北大学)の教員であったドイツ文学者・登張竹風との共訳によるゲアハルト・ハウプトマンの戯曲『沈鐘』の翻訳についてです。ドイツの劇作家・小説家であるハウプトマンが1897年に発表した“Die versunkene Glocke”について、下訳を登張が行い、それを踏まえて鏡花が本文を仕上げたものになります。
 前回の記事でも述べましたが、明治時代の翻訳者は原テクストの言語をよくする人びとが直接翻訳した作家たちと、原テクストの言語を十分には承知しないものの、外国語のできる協力者を得て原作の日本語化に専心した戯作者や作家たちがいました。今回の鏡花も後者に属することになります。このような経緯を考えると、同翻訳において鏡花はなんとなく大したことをしていないような気もしてしまうのですが、端的にそうも言い難いものがあります。井上健氏は明治期の文学者による翻訳について、以下のように述べています。

完全な名義貸し翻訳を除けば、下訳に筆を入れたものでも、いや原文に引きずられることなく筆を入れたものであればあるほど、「翻訳者」である作家の個性や文章感覚は反映されているはずである。下訳を通して二次的にではあるが、そこに異言語間の葛藤と対話を認めることは可能なはずである。

井上健『文豪の翻訳力 近現代日本の作家翻訳 谷崎潤一郎から村上春樹まで』武田ランダムハウスジャパン、2011

 つまり、本人に言語能力があって翻訳したものと、協力者を得て翻訳されたものは共に異言語体験を経ており、そこに何らかの積極性を読むことは可能、ということになります。その発想のもと、『沈鐘』翻訳を見てみましょう。
 竹風と鏡花による『沈鐘』翻訳は、『やまと新聞』1907(明治40)年5月5日~6月10日に、原作の第二幕まで翻訳され、翌1908年9月に春陽堂から単行本として刊行されました。ハウプトマンの戯曲は、以下のあらすじとなっています。鐘造り師のハインリヒはシュレジエンの山に住む怪異を鎮める鐘の鋳造を依頼されたのですが、女性怪異のラウテンデラインと恋に落ち、鐘は怪異たちによって湖に沈められます。山の妻マグダを棄てて彼女とともに山に入るハインリヒなのですが、マグダの死が知らされて再び人里に戻ってしまいます。その間にラウテンデラインは水の精と結婚してしまい、自らの死と引き換えに彼女との接吻を果たしたハインリヒの死が描かれます。では、この戯曲を鏡花はどう訳出したのでしょうか。一部を引用してみましょう。

岩の上に山姫居ふ。/姫の装いは、十三四の少女と、十八九の娘盛りの服装とを、相半ばしたるに似たり。/山姫ラウテンデライン[朗]/(丈に余る黄金の髪を掻き撫でつゝ、末を振つて、此の時、目の前を飛ぶ一匹の蜂を払ひながら)/山姫 お前は、まあ何処から来たの。

(強調は筆者による)

 一目見て明快だと思うのですが、ラウテンデラインという若干長めの名前を「朗」と訳し、山に住む美しい女性怪異としての様相を「山姫」と訳すなど、日本人読者にとってわかりやすい翻訳となっています。他にも主人公のハインリヒを「埴生理非衛」、物語後半で活躍するラウテンデラインの母である老婆を近世以降知られる怪異存在「山姥」や「野槌」と表現しています。

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ゲアハルト・ハウプトマン

 翻訳のスタイルには受け手側には易しくなくても外国語のニュアンスを極力尊重するforeignization(異化)と、外国語のニュアンスを損ないはするものの受け手側に合わせて翻訳するdomestication(同化)の側面がありますが、本翻訳は当然後者となります。鏡花自身、自らの翻訳に対して文芸批評家・長谷川天渓からの翻訳について寄せられた批判について以下のように応答しています。

天渓君の罵られたのは、訳中ラウテンデラインの対話が、女学生上がりの看護婦か、売春婦のやうだとある。其の言葉がもし其通りであるとする、すれば、聊も竹風君の過失ではない、残らず私の越度である。(略)ラウテンデラインは此の野育ちの性格の中に、君が所謂美の表象はあるのだから、是を訳すのはむづかしい。決して私は易いとは言はぬ。で序幕の初め、鉢に対する科白のあたりを見ては文章体にしてと言ふつもりであつたが、読めば読むに従うて其の不調和なのに難渋したため、細思熟考の後に一刀両断して口語を用ゐた。

泉鏡花「あい/\傘」『新小説』1908年7月

 つまり、本文の誤訳ではなく、「野育ち」ながら「美」を有するというラウテンデラインの造形から、話し言葉を工夫したという表明がなされているわけです。まさに小説家としての仕事の延長にこの翻訳があったことを見て取ることが出来るでしょう。
 さて、この翻訳作業は鏡花の創作にも影響を与えます。それが、1913(大正2)年に発表された鏡花初のオリジナル戯曲「夜叉ヶ池」です。その梗概は以下の通りです。
 時は現代、越前国琴弾谷には伝説がありました。鐘楼守の萩原晃・百合夫婦の守る鐘は、定刻に撞かなければ峰の夜叉ヶ池から洪水が起こるというのです。夜叉ヶ池の主・白雪姫は白山千蛇ヶ池の若殿に恋い焦がれていますが、洪水なしに逢瀬はままならなりません。その夏、村は日照り続きで、村人は雨乞いのため百合を夜叉ヶ池の龍神に向けた人身御供にしようと、神官・村長らを先頭にやってきます。彼らとの争いのうちに百合と晃は自殺し、このために鐘を撞くべき時刻を過ぎ、洪水が襲い、鐘は水中に沈み、村人は悉く死んで魚に変じます。自殺した夫婦は新たにできた鐘ヶ淵の主となったのでした。
 沈む鐘や人ならざる存在の姫と恋といったモチーフの連関にとどまらず、テクスト間には人物配置と舞台設定の連関が見てとれます。まず人物配置ですが、「夜叉ヶ池」にはヒロインの百合を襲う神官と村長がおり、『沈鐘』にはハインリヒを人里に呼び戻そうとする僧と学校長がおります。彼らは近代的な人間世界の代表的存在であって、近代的な規範から見たときには不合理な存在である俗信や怪異存在との対極にある存在です。次に舞台設定の連関ですが、両テクスト共に人里と山の中の異形のものたちの世界とが対比的に成り立っています。それらを往還するかたちでテクストが展開しているのも共通点と言えるでしょう。
 これらの人物配置と舞台設定はテクストの構造そのものにも深くかかわるものとなっています。「夜叉ヶ池」では物語の時空間が「現代」とされていますが、まさにこのテクストでヒロインの百合が辱められそうになるのは代議士の以下の論理によるものです。

おい、いやしくも国のためには、妻子を刺殺して、戦争に出るというが、男児たるものの本分じゃ。且つ我が国の精神じゃ、すなわち武士道じゃ。人を救い、村を救うは、国家のために尽すのじゃ。我が国のために尽すのじゃ。国のために尽すのに、一晩媽々を牛にのせるのが、さほどまで情ないか。

 つまり、近代の国民国家への奉仕がテクストの背景にあり、それに対して結末部では破局的な展開で人間世界への逆襲が行われることになるのです。この問題意識は『沈鐘』においてもすでに用意されていたものでした。先ほど引用したものと同じテクストから鏡花の言明を確認します。

竹風君に伺った処でも、原書の対話は、鋳鐘師ハインリヒの住居のやうな、古代の独逸の風ではない、篇中の思想と共に近代のものださうだ。ラウテンデラインの其の棲む所も、秦の始皇帝を婦で行くやうに、諸司百官袖を連ねて、ハヽ申し上げまする、入らせられませうで斎眉かれて居る身分でない。

泉鏡花「あい/\傘」『新小説』1908年7月

 つまり、鏡花は現実とは位相の異なる異界を描く小説を敢えて現代という時空間で実装することについてかなり意図的だったわけです。このような幻想文学の枠組みを採用しつつ、現実社会への批評性をもち得たことは注目すべきでしょう。
 では『沈鐘』と比較した時、「夜叉ヶ池」はどのような決定的な差異とオリジナリティを有するのでしょうか。それは、おそらく末尾の改変に求められると思われます。『沈鐘』は以下のようにラウテンデラインとハインリヒの再会を描きます。

鋳鐘師 太陽!/山姫 (半ば歔欷しつゝ、半ば歓喜しつゝ)ハインリヒ!!/鋳鐘師 あり、がたう。/山姫 (鋳鐘師を抱きつゝ、其の唇を、鋳鐘師の唇に触れて、じつと接吻する――死にゆく人を心優しく、朝芽生の旭の露の玉敷かせて、)ハインリヒ!!/鋳鐘師 空に高く、日輪の鐘鳴動く、轟! おゝゝ太陽……日の出、日の出!――あゝ、夜は長い。/曙光。

 両者の再会は描かれるものの、接吻の後ハインリヒは死をまぬがれることはできず、悲劇的な結末であると言わざるを得ません。それに対して「夜叉ヶ池」では以下のようにテクストが閉じられます。

白雪 人間は?/姥 皆、魚に。早や泳いでおります。田螺、鰌も見えまする。/一同 (哄と笑う)ははははははは。/白雪 この新しい鐘ヶ淵は、御夫婦の住居にしょう。皆おいで。私は剣ヶ峰へ行くよ。……もうゆきかよいは思いのまま。お百合さん、お百合さん、一所に唄をうたいましょうね。/たちまちまた暗し。既にして巨鐘水にあり。晃、お百合と二人、晃は、竜頭に頬杖つき、お百合は下に、水に裳ひいて、うしろに反らして手を支き、打仰いで、熟と顔を見合せ莞爾と笑む。/時に月の光煌々たり。/学円、高く一人鐘楼に佇み、水に臨んで、一揖し、合掌す。/月いよいよ明かなり。

 人間サイドからすると村単位で人間全員が水棲動物に変化してしまうという激烈な展開となっていますが、すくなくとも百合と晃、白雪と千蛇ヶ池の若殿の恋愛は成就し、怪異存在たちにとっては非常に祝祭的な終わり方を迎えています。『沈鐘』が夜明けとともに幕が引かれていたのに対し、「夜叉ヶ池」では夜更けて月が明るい情景で締められ、これまた夜の住人としての怪異存在の隆盛を思わせるテクストとなっているのです。いわば、『沈鐘』が近代的な人間に軸足を置いていたからこそ避け得なかった悲劇的展開を、基本的にその〈外部〉にアクセントを置くことによって回避することに成功したとも言い得るのではないでしょうか。
 鏡花が翻訳経験からむしろ自身の作品世界を鍛え直していくその過程が、ここからは読みとれるように思います。

(次回以降の記事はこちら)
Ⅲ 中島敦・久生十蘭の南洋体験
Ⅳ 「幻想文学」のはじまりと翻訳出版

茂木 謙之介(もてぎ けんのすけ)
東北大学大学院文学研究科 准教授。
1985年3月、埼玉県大宮市(現さいたま市)に生まれる。東北大学文学部人文社会学科日本史専修卒業。東北大学大学院文学研究科人間科学専攻宗教学研究分野博士課程前期二年の課程修了。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。足利大学工学部共通教育センター講師を経て、2019年10月から現職。

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