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夢みる近代小説と異言語経験Ⅲ

著者 茂木 謙之介(もてぎ けんのすけ)

(前回までの記事はこちら)
Ⅰ 明治大正文学とエドガー・アラン・ポー
Ⅱ 泉鏡花とハウプトマン

Ⅲ 中島敦・久生十蘭の南洋体験

 本連載では、これまでアメリカとドイツという欧米の言語圏の文学と日本の文化人たちのかかわりについて述べてまいりました。日本の近代化は欧米をスタンダードとしてみなしていましたので、そこまで違和感もなかったかもしれませんが、もちろん近代小説の異言語体験はそれらの地域だけにとどまるものではありません。
 例えば近代小説の草分けとして語られる『浮雲』の作者・二葉亭四迷はプーシキンを翻訳したロシア文学者ですし、幻想小説「西班牙犬の家」などを著した佐藤春夫は中国の文化に親炙していて所謂「支那通」として知られていました。ほかにも本記事のテーマに関連しては中国の古典や怪談を翻訳したり、それにインスパイアされたテクストを数多く残した田中貢太郎などが見逃せません。
 欧米が日本の近代化のモデルケースだったからこそ、それらの文化への注目はなされていたわけですが、ロシアや中国に関してはそれだけではなく、むしろ日本近代における負の側面と関わり得るものでもありました。たとえば中国やロシアとの戦争、東アジア諸国への植民地化といった歴史的な出来事は、その地域への政治・経済・軍事的な関心に加えて文化的なそれをも惹起するものだったのです。
 本記事で俎上に載せる南洋体験も、勿論その例に漏れません。近代日本の南洋経験としては、第一次世界大戦を外すことが出来ません。同大戦の際、日本海軍はドイツ保護領であった南洋群島を占領し、1914年12月に臨時南洋群島防備隊を置いて軍政を布きました。1919年5月のパリ講和会議で赤道以北の旧ドイツ領を日本の委任統治領にすることが決定した後、軍政を撤廃して、統括官庁の南洋庁を創設することになります。その後本格的に日本からの移住が増えますが、アジア太平洋戦争に伴い同地域は戦場となります。1943年末からは戦局の悪化に伴って、在留邦人の内地引揚がはじまり、1944年末までに約1万6千人が帰還することになります。敗戦後はアメリカ軍が進駐し、1945年9月下旬から1946年12月まで日本の軍官民の引き揚げが行われることになります。つまり、大日本帝国の拡張と崩壊に伴うかたちで南洋と日本が関係する歴史があるのです。
 以上の経緯を踏まえて本記事では中島敦(1909~1942)と久生十蘭(1902~1957)の作品を紹介します。「山月記」などの作品から中国文化に親炙しているイメージのある中島ですが、南洋庁の国語編修書記として1941~42年にパラオに滞在しています。またフランス文化との関係がよく知られる久生は、海軍報道班として1943~44年に従軍し、東南アジアからメラネシアをめぐっています。

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中島敦(1909~1942)

 はじめに紹介するのは、中島の生前二冊目の作品集となる『南洋譚』(今日の問題社、1942年)です。同書の前半には中島の南洋経験に端を発した作品が集められていますが、ここでは巻頭の「幸福」を取り上げたいと思います。「今は世に無きオルワンガル島の昔話」とされるこのテクストは、大変貧しい島の召使が悪神に祈ったところ、現実は全く変化しなかったものの、夢の中では大金持ちとなり現実の生活でも幸福を感じるようになる一方で、彼が仕える島の大金持ちは夢の中で使用人にこき使われる存在となっており現実の世界にもそれが侵食してくる、という筋書きになっています。
 このテクストは以下の記述から始まります。

昔、此の島に一人の極めて哀れな男がいた。年齢を数えるという不自然な習慣が此の辺には無いので、幾歳ということはハッキリ言えないが、余り若くないことだけは確かであった。髪の毛が余り縮れてもおらず、鼻の頭がすっかり潰れてもおらぬので、此の男の醜貌は衆人の顰笑の的となっていた。おまけに脣が薄く、顔色にも見事な黒檀の様な艶が無いことは、此の男の醜さを一層甚だしいものにしていた。

 年齢を数えることを「不自然」と表現するほか、「哀れな男」のビジュアルについても同地域における規範が同時代の日本とは異質であることが述べられています。いわばエキゾチックな異郷として南洋を描き、不思議な出来事の背景としているわけです。他にも富を象徴する勾玉「ウドウド」や「犬猫にあてがわれるようなクカオ芋の尻尾」といった同地域の言葉を引用することによってエキゾチックさを演出しているのですが、登場する人物は基本的に貨幣経済の中で近代人と同様に思考し、行動しているように描かれてもいます。そのなかで悪神「椰子蟹カタツツと蚯蚓ウラズ」に祈り、現実と夢とを転倒させた「哀れな男」の存在は際立っています。
 テクストは以下の文章でしめくくられます。

右は、今は世に無きオルワンガル島の昔話である。オルワンガル島は、今から八十年ばかり前の或日、突然、住民諸共海底に陥没して了った。爾来、この様な仕合わせな夢を見る男はパラオ中にいないということである。

 今は失われてしまった時空を描いていたことが明示されており、夢と現実の転倒という出来事がもはや存在しないことを示しています。これによって語りの現在時における日本統治下のパラオが読者と同じ現実の時空間にあることをも提示しているといえるでしょう。いわば近代人が見たエキゾチックな異郷の失われた世界についてのノスタルジーが語られているといってもいいかもしれません。
 つづいてご紹介したいのは久生十蘭の「黄泉から」です。『オール讀物』1946年12月号に掲載された同テクストは、貿易商の魚返光太郎が、敗戦後一年のお盆に、戦時中に「婦人軍属」になってニューギニアへ行き、同地で亡くなった唯一の肉親・おけいの弔いをしていたところ、おけいの戦友の女性・伊草が訪れ、そこにおけいの意思を感じるというあらすじです。死者の弔いを行い、その死者の意志と存在をありありと感じる喪のテクストとして大変見事なのですが、そのなかでも印象的なのは、伊草が伝えるニューギニアでの出来事の数々です。

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久生十蘭(1902~1957)

 おけいの死の直前、訪ねてきた部隊長が「こんなところで死なせるのはほんとうに気の毒だ。お前、なにかしてもらいたいことはないか」ときいたのに対し、おけいは「では、雪を見せていただきます」と伝えます。さすがに赤道直下のニューギニアに雪が降るわけはなく、困った部隊長でしたが、一計を思いついておけいをある場所に連れて行きます。 

 なにがはじまるのだろうと思って担架について谷間の川のあるところまでまいりますと、空の高みからしぶきとも、粉とも、灰ともつかぬ、軽々とした雪がやみまもなく、チラチラと降りしきって、見る見るうちに林も流れも真白になって行きます。/部隊長はおけいさんに、さあ、見てごらん。雪を降らしてやったぞと高い声でいわれますと、おけいさんはぼんやり眼をあいて、雪だわ、まあ美しいこととうっとりとながめていらっしゃいましたが、間もなく、それこそ眠るように眼をとじておしまいになりました。

 それは、「ニューギニアの雨期明けによくある現象なんだそうですけど、河へ集まってきた幾億幾千万とも知れないかげろうの大群だった」と説明されます。いわば土地ならではの虫の大軍を雪に見立てたわけですが、同様の経験をすでにおけいはしていました。
 彼女の幼少期に、おけいの父親は「月見をする」といって芸者たちとともに船に乗り、「芸者たちが、おもて、みよし、艫とわかれておもいおもいに空へ川面へ銀扇を飛ばすと、ひらひらと千鳥のように舞いちがうのが月の光にきらめいて夢のようにうつくしい」という豪勢な遊びをしていたのです。まさに日本文化に浸潤している「見立て」が行われているのです。
他にも、筝曲をよくするおけいは、ニューギニアでちょうど従軍していた琴師の兵士に「ラワンやタンジェールなどという木」で琴をつくってもらって夜になると弾き、それを伊草は「ジャングルの奥から「由縁」なんかきこえてきますと、なんともいえない気持がいたしましたわ」と語ります。
 これらでは南洋のエキゾチックさが示されるとともに、それを日本の文化的な文脈とつなげつつ、死者の回帰を語ることが試みられているといえるでしょう。端的にエキゾチックな様相を借りて消費するだけではなく、それを巧みに語り直すものとして受け止めることも出来そうです。
 今回紹介しました二つのテクストはそれぞれなりに南洋という異郷での経験を、日本語のテクストに落とし込む取り組みでもあったといえるでしょう。戦後のテクスト、例えば冷戦体制下におけるアジア・アフリカの問題と向き合う映画『モスラ』(1961)や、ニューギニアでの従軍体験を参照して人ならざる存在を現代社会と結び合わせた水木しげるのテクストなどにも南洋経験は緩やかながら広く展開しています。これらの歴史的な経緯に目を向けると、もっともっとテクストの拓く世界の可能性が広がるかもしれません。


茂木 謙之介(もてぎ けんのすけ)
東北大学大学院文学研究科 准教授。
1985年3月、埼玉県大宮市(現さいたま市)に生まれる。東北大学文学部人文社会学科日本史専修卒業。東北大学大学院文学研究科人間科学専攻宗教学研究分野博士課程前期二年の課程修了。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。足利大学工学部共通教育センター講師を経て、2019年10月から現職。

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