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  • 著者のコラム

独語教師の独り言 第2回―母語の威力

著者 森 泉(ドイツ語教師)

西欧の風景に映し出されたドイツ語教師の心の風景、ことば、教育をめぐる私の独り言、4回にわたって思いつくままに語ります。

ドイツの列車

列車で読書

ドイツに長期滞在中、パリの友人を訪ねたときのことである。ドイツから特急で4時間ほどの旅になるので、こういう場合の常として本を持参した。道中読む本であるから日本語の小説か、せめてドイツ語なら軽い読み物を持ってゆけば良いのだが、つい気張って読みかけていた哲学書を鞄に入れてしまった。ドイツ語としてそれほど凝った文体ではないが、注意深く論を追ってゆかないとなかなか分かりにくい、そんな本である。まあ、一つには環境が変われば少しは読み進めるかという淡い期待というか幻想があったのかもしれない。

列車は結構混んでいて、座席は8割がた埋まっている。周りではドイツ人たちのお喋りが聞こえたが、それでも少し経つと本に集中し、普段の書斎よりは新鮮な気持ちで読み進められているような気になっていた。自慢ではないが私は耳が良い方ではないので、元々リスニングが苦手であり、こういう場合、最初はともかく、聴き続けているとドイツ語もBGMに近くなってしまって、読書の邪魔になるということはほとんどない。

読書を邪魔するものは・・・

さて2時間ほど経って、あれはブリュッセルにさしかかった頃だと思うけれど、日本人の一団が乗り込んできた。ビジネスマン風の二人連れだったと記憶する。私は車両の一番端の隅に座っており、彼らが席を取ったのは対角線上にある車両の反対側の隅であった。要するに車両内では一番離れた席に腰を下ろしたことになる。私は「日本人が乗ってきたな」と思ったが、列車が走り出すとともに再び視線を本に戻した。ほどなく二人の日本人のお喋りが始まった。

ところが、その瞬間を機に、私は本に集中できなくなってしまったのである。どちらかと言えば小声で、話の内容も私の関心を惹くものでもない。特に聴きたい話でもないのというのに、話し声の一つ一つが否応なく私の耳に飛び込んでくるのである。大袈裟に言えば、もう微に入り細にうがって理解できてしまうのである。もはやドイツ語の本なぞ読んでいることはできない。私は読書を諦めることにした。比較的長く日本語を耳にしておらず新鮮に聞こえたという事情はあったにせよ、この時ほど母語の威力を感じたことはなかったかもしれない。私はリスニングが苦手というのは、あくまでも外国語についてなんだなぁと身に滲みて感じた瞬間でもあった。

母語と外国語

母語とは不思議なものである。大学の外国語センターで学生にアンケート調査をした事がある。その折、かなりレベルの高い学生でも習得語彙の不足を気にしているのが目についた。成人であればごく特殊な場合を除いて、母語の語彙不足を大きな不安材料と感ずることはまずない。これから会合に出席するからといって、(専門的な会議でない限りは)私の語彙力で大丈夫かなどと心配することはないだろう。極端に言えば、分からなかったら聞けば良いと思っている。本来、母語であっても語彙の習得には限りがないのに、我々はそのことを悩むでもなく平気で暮らしている。この差は何か?母語と外国語の心理的距離はそれだけ大きいのだろうか。

ドイツの駅構内

記事を書いた人:森 泉(もり いずみ)
ドイツ語教師歴30年以上。
カフェと万年筆を愛するアナログ派。座右の銘は「まずお茶を一杯」。
Leica倶楽部会員。慶応義塾大学名誉教授。
著書に『しっかり身につくドイツ語トレーニングブック』
『場面別ディアロークで身につけるドイツ語単語4000』(ベレ出版)

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