2006.01.01 著者のコラム はじめて読む 数学の歴史上垣渉 数学(マセマティクス)の語源は、ギリシア語の「マテーマタ」であり、「学ばれるべきことども」(複数形)を意味しています。つまり、見よう見まねでは決して身につかず、一定の教育課程に沿った系統的な学びによって、初めて身につく内容を総称しているのです。そのような内容は、古代ギリシアのピュタゴラス学派によって、数論、音階論、幾何学、天文学の4科として定型化されました。しかし、数学がそのように定型化されるまでには、長い道のりを経なければなりませんでしたし、数学が他の諸科学から分離独立し、その内容を豊かに蓄積していくには、さらに長い道のりを必要としました。 数学はもともと、古代のエジプト、メソポタミアなどの大河の流域において国家が形成され始めて、灌漑農業生活が営まれるようになり、農耕生活を営む上で欠かせない実用上の問題解決や国家維持のための行政上の諸問題を解決するために形成されていきました。こうした事情は、インドのインダス河、中国の黄河の流域において誕生した文明圏でも同様に見られます。 古代エジプト、メソポタミアの地において発達した古代オリエントの数学はタレスやピュタゴラスなどによって小アジアのイオニア地方、南イタリアの地へもたらされ、実用上の問題解決を超えて、人間の精神的営みへと質的な転換をとげました。その端的な例が「証明」概念の成立です。この証明概念の成立の上に、公理的・演繹的学問としての数学が誕生したのです。それを体現したのがユークリッドの『原論』です。 ユークリッドの『原論』は定義、公準、公理に始まり、さまざまな定理を演繹的に導き出していくというスタイルをとっていて、今日の数学の原型をなすものであると言ってもよいでしょう。そのため、『聖書』に次いで世界各国語に翻訳され、実に二千年以上にもわたって「数学の聖典」としての地位を占め続けたのでした。近代自然科学の金字塔とも言えるニュートンの有名な『自然哲学の数学的原理』(プリンキピア、1687年)などもこの『原論』を手本にして書かれています。 地中海世界における数学的活動はギリシア本土へと移行し、さらに、紀元前300年頃から始まるヘレニズム時代に至って、アレクサンドリアにおいて展開されるようになります。紀元前300年をはさむ数百年間の時代は科学史上、最も多産な活動が展開された時期の1つであり、第1次科学革命の時代と位置づけられています。この時代には、アルキメデスやアポロニオスなども活躍しました。 紀元4世紀になると、パッポスを最後に、古代ギリシアにおける独創的な数学研究は衰退していきますが、主要な研究成果はギリシア文明圏からビザンティン文明圏へ、そしてシリア文明圏へと引き継がれていきます。さらにシリア的ヘレニズム諸科学は、アラビア語訳されてアラビア文明圏へ移入され、アラビア学術文化の勃興の時代が始まることになります。 アラビア学術文化は11世紀に黄金時代を迎えますが、この学術文化を今度は西欧世界が摂取することになります。それが12世紀の西欧における大翻訳時代の到来であり、一般には「12世紀ルネッサンス」と呼ばれます。ムハンマド(マホメット)に始まるイスラム帝国は、アラビア半島から地中海沿岸の北アフリカ地域、そしてイベリア半島にまで及びましたが、12世紀ルネッサンスの中心となったのはカタロニアを含む北東スペインと中央部のトレドを中心とする地域、パレルモを中心とするシチリア島、そして北イタリアなどの地域でした。これらの地域でアラビア語文献やギリシア語文献のラテン語訳が進められていったのです。 これらのラテン語訳を通して、西欧世界に学術文化の華が開花することになります。その中心となったのはイタリア、フランス、ドイツ、そしてイギリスであり、これらの地で、3次、4次方程式の解法、記号代数学の発明、近代力学の成立、解析幾何学の誕生、確率論の発生などが進行し、さらに接線法と求積法が発達すると同時に、この両者の間の密接な関係が明らかにされ、ニュートンとライプニッツによる微積分法の発見へと繋がっていきました。この時代は今日、第2次科学革命の時代と呼ばれています。 拙著『はじめて読む 数学の歴史』は、古代オリエントの数学から説き起こし、微積分法の発見に至るまでの数学の歴史を平易に通覧した書です。この本を契機として、数学史に親しむと同時に、より広く、より深く、数学史への興味と関心を抱いていただければ幸いです。 関連書籍 はじめて読む 数学の歴史 数学の歴史の入り口をわかりやすく解説 上垣渉数学