2009.05.22 著者のコラム 中国英雄列伝を漢文で読んでみる幸重敬郎 「河」といえば「黄河」、「江」といえば「長江」というのが、中国では常識です。 黄河は四大文明の一つである「黄河文明」を育んだ川です。黄土高原に源を発し、山東半島の北に位置する渤海に注ぎます。上流から大量の土砂が運ばれて堆積した結果、下流域では天井川となり、しばしば大洪水を引き起こしました。底が浅いのであまりの水運には適しません。 一方、長江はチベット高原に源を発し、東シナ海に注ぎます。わが国では古くから「揚子江」と呼びならわされてきましたが、「揚子江」という呼び方は長江の下流域の一部を指すもので、川全体を呼ぶときには「長江」といいます。地図で長江の流れを見るとわかりますが、その形は龍にたとえられます。古くから水運が発達しました。 近年の研究で長江流域にも「黄河文明」に匹敵するような文明があったのでないかともいわれていますが、やはり長江の流域が歴史に登場するようになるのは周王朝の頃からです。とくにその後半の春秋時代(前770〜前403年)、戦国時代(前403〜前221年)になると中国全体の覇権を争うような国が長江流域に出現します。下流域には「呉」や「越」、中流域には「楚」が成立します。 戦国時代を終わらせて中国を統一した秦の始皇帝は、当時あった6つの国(楚・趙・魏・韓・燕・斉)の中で最初に長江中流域にあった楚を滅ぼします。その秦を滅ぼした英雄の一人、項羽は楚の国の出身でした。その項羽はやがて劉邦との戦いに敗れ、長江の岸までやってきますが、渡って逃げ延びることを潔しとせずに最期を迎えます。 黄河にくらべて長江の方が歴史の舞台となることが多いように思います。とくに三国時代のはじまりともなる「赤壁の戦い」は長江の中流での戦いです。現在長江の真ん中あたりに「武漢」という町があります。「赤壁」はここから少し上流に位置します。 私も一度訪れたことがあります。「赤壁」は長江の南岸です。私は武漢からバスで曹操軍の陣があった北岸まで行き、そこから小舟で「赤壁」に渡りました。時に8月下旬で水量が多く、川幅は4キロメートルありました。渡ると水牛が出迎えてくれました。小高い丘には呉軍を指揮した周瑜の像が北を向いて立っていました。観光客相手の店が四、五軒ありましたが、他には何もない静かなところでした。 千八百年前にこの場所でと思いを馳せながら、長江をわたる風に吹かれいるのは最高に気持ちのよいものでした。対岸に見えるのはただ緑の土手ばかりでした。 現在、長江には「三峡(サンシャ)ダム」が建設されつつあります。ダムは赤壁よりさらに上流です。ダムが完成して水位が上昇すると風景が変わるので、その前にと船で白帝城まで上ったこともあります。白帝城は劉備が亡くなった場所として有名です。ここからの切り立った山に挟まれた長江の眺めもまた最高でした。また船に乗って流れを体感し、一方すれ違う船に手を振るというのも長江の旅ならではです。(写真は白帝城に上る船のデッキで撮ったものです。) 古来「南船北馬」といいます。交通手段は南が船で、北が馬とされてきました。まさに長江は水運の川です。だからこそしばしば歴史の舞台ともなってきたのでしょう。 関連書籍 中国英雄列伝を漢文で読んでみる 『史記』『三国志』の英雄譚を漢文で味わう! 幸重敬郎漢文