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  • 著者のコラム

日本の漢字1600年の歴史

漢字と日本人

沖森卓也

1 1600年に及ぶ漢字の使用

 日本語は漢字と仮名で書かれています。漢字はもともと中国語を書き表すものですが、日本に伝わって日本語をも書き表すようになりました。その漢字を崩して平仮名が、「安」から「あ」、「加」から「か」というように作られ、漢字の一部を省略して片仮名が、「伊」の篇から「イ」、「宇」の冠から「ウ」というように出来ました。まさに、日本語の文字表記は漢字なしでは成り立たないと言えます。また、漢字の音からできた、「大学」「勉強」などの漢語も多く用いられています。このように、日本人・日本語と漢字とはきわめて関係が深いのです。
 日本列島に漢字が伝来したのはいつか、その時期は特定するのはむずかしいのですが、稲荷山古墳から出土した鉄剣銘(471年)などから見て、日本列島において本格的に漢字が用いられ出したのは5世紀の初めころからで、漢字と日本人との付き合いはおよそ1600年ということになります。

2 複数の音読み

 東京と八王子を結ぶのは「京王線」ですが、この「京」はケイと読まれますが、「京都」ではキョウと読みます。このように、一つの漢字に複数の音があることが少なくありません。なかには、「行」は、「修行」ではギョウ、「行動」ではコウ、「行脚」ではアンとなりますから、なんと三つもあるのです。では、なぜこのように漢字に音読みが複数あるのでしょうか。それは、中国でも時代とともに漢字の発音が変化していて、時代の隔たる、それぞれの漢字音が別個に日本語に取り入れられたからです。
 この代表的な二つの字音体系が「呉音」と「漢音」です。「行」「京」のギョウ・キョウは呉音、コウ・ケイが漢音です。呉音は6世紀ごろに百済を経由して伝来した字音体系です。百済から儒学・仏教を受容し、それにともなって字音も長江下流域に由来するものを取り入れました。「極楽」「写経」「精進」などの仏教用語、「一」「二」「六」「百」などの数詞のほか、「人間」「絵」「文字」などの日常的に用いる語などで広く用いられました。
 一方、漢音は遣唐使たちが直接日本にもたらした字音体系です。608年に遣隋使小野妹子が派遣され、唐が建国された後は記録の上で20回の遣唐使派遣(実際には渡航しなかった場合を含む)がありました。その遣唐使たちが帰国して、唐の都である長安(現在の西安)で話されていた発音を標準音として採用することを主張しました。これが漢音と呼ばれるものです。奈良時代末期には朝廷は呉音をしりぞけて、正音(漢音)の使用を学者・僧侶に奨励しましたが、呉音はすでに日本語に深く浸透していたため、廃止されることなく、今日に至るまで漢音とともに並存することとなりました。ただ、博士家(はかせけ)を中心とした学者の間では漢籍の訓読において漢音の使用が定着し、そして、江戸時代に儒学が普及するに従って、漢音は勢力を増し、呉音に置き換わって用いられることが多くなってきています。
 このように、呉音と漢音は、中国語の歴史的変化、そして地域的な変異を反映していますか、その差異が両者の対応関係にしっかりと表れています。

3 呉音と漢音

 まず、「京」の二つの漢字音(呉音kyou・漢音kei)において、最初の子音(頭子音)kを除いてみると、残る部分のキョウはyou、ケイはeiとなります。これは「正(正体・正式)」「平(平等・平和)」「明(光明コウミョウ・明白)」などにも同じように見られますから、youとeiは呉音と漢音において対応関係にあることがわかります。このような対応関係を他にも探してみましょう。
 on/in 「音(音楽・子音シイン)」「隠(隠密オンミツ・隠者インジャ)」「金(金堂コンドウ・金属)」
 e /a 「下(下品・下等)」「家(家来・家族)」「化(化粧・変化)」
 iki/yoku「色(色彩・白色)「直(正直・直線)」「力(力士・腕力)」
このような対応関係頭子音にも同じように見られます。たとえば、「武」は「武者修行」ではムですが、「武士」ではブとなります。「木」は「木材」ではモクですが、「木刀」ではボクです。このように、最初の子音がm(マ行)とb(バ行)で対応する一群のものが見られることがわかります。。ほかにも少し見てみましょう。
 n(ナ行)/z(ザ行)「人(人気・人格)」「日(日常・本日)」「児(小児・児童)」
 b(バ行)/h(ハ行)「白(白虎・白熱)」「平(平等・水平)」「凡(平凡・凡例)」
 d(ダ行)/t(タ行)「大(大小・大切)」「読(読書・読本トクホン)」「伝(伝授・伝馬テンマ)」
 この背景には、言語の史的変化における規則性があります。そのため、中央語と方言との間にも一定の対応関係があるのです。

4 唐音と現代中国音

 呉音・漢音のほかにも漢字音があります。たとえば、「行灯」をアンドン、「普請」の「請」をシンなどと読む類です。これらは13世紀以降禅僧などによって日本にもたらされ、定着していったもので、「唐音トウイン」(トウオンとも、また「唐宋音」などとも)と呼ばれているものです。比較的新しく中国から伝来したもので、その特徴の一つに、「行脚」の「脚」をギャと読むように、キャクのクに当たる部分をなくしたことがあります。
 このクは、実際には英語のstraike[straik]やcook[kuk]のように、子音kで終わる部分に対応するもので、このような最後の子音を尾子音と呼びますと、隋唐時代の中国語では、尾子音にkのほかにも英語でcat、capとあるような、tやpがあり、これらが日本語ではそれぞれキ・ク、チ・ツ、フと発音されました。後にpのフはウになってしまいますが、「法」「塔」などはもともと尾子音pを持った漢字でした。この尾子音p・t・kがなくなった現代中国の普通話では、中国語で「一」(イチ)は「イー」(高平調)、「七」(シチ)は「チー」(高平調)、「八」(ハチ)は「パー」(高平調)となっているのです。

5 漢字文化圏としての韓国漢字音

 ところで、漢字と深い関係にあるのは中国と日本だけでなく、韓国・北朝鮮、そしてベトナムもそうです。今日の「漢字文化圏」において朝鮮韓国語・ベトナム語では漢字が使用されてはいませんが、漢字の音読みによる語が語彙の半数以上にのぼるといわれています。ちなみに、「ベトナム(Việt Nam)」は「越南」のベトナム漢字音です。ベトナム語はここではしばらくおくこととして、韓国語の漢字音について少し見てみましょう。
 韓国の伝統的な漢字音は「東音」と呼ばれ、10世紀ごろに唐の都であった長安における発音を母胎として形成されたものです。そのため、先ほど触れた尾子音のp・kはそのまま保存されており、また、tもlに対応して残存しています。たとえば、女優の「パク・ソルミ」の「パク」は尾子音のkの発音です。「キム・ジョンイル」の「イル」(一)は尾子音tから転じたlの発音です。このように、tがlに対応する韓国語では、「一」(イチ)は「イル」、「七」(シチ)は「チル」、「八」(ハチ)は「パル」となるわけです。すなわち、「一七八」は「イルチルパル」となります。
 韓国の代表的な空港にインチョン空港があります。漢字で書くと「仁川」で、「ジン」を「イン」と読みますが、「仁」は呉音ニン、漢音ジンで、このような子音の対応(呉音ナ行・漢音ザ行)を持つ場合、初めの子音がなくなってインとなるのです。これと同じ理由で、「日」(呉音ニチ、漢音ジツ)が韓国語ではイル、数詞「二」(呉音ニ、漢音ジ)が「イ」と読まれるのです。
 数詞の「三」は韓国語では「サム」です。ムは尾子音のmの発音で、古い時代の中国語はやはりsamであったことを反映するものです。日本語でも古くはサムと発音されていて、「三位」をサンミと読むことにその明証が得られます。これはsam・iの発音をsam・miとも発音したことによるもので(このような音の変化を「連声(レンジョウ)」と呼んでいます)、サンミのミに「三」の尾子音mの痕跡が得られるのです。この尾子音mは中国語でも日本語でもnとなってしまいましたが、韓国語では古い発音が保存されているのです。このほか、「金」のキム、[南」のナムなども同じです。
 ちなみに、連声の例をほかに挙げると、「仁和寺」(ニンワジ)がニンナジ、「観音」(カンオン)がカンノンと発音されるものなどに見えています。

6 東アジアの中の日本、そして漢字

 もう一例、数詞で「四」を見てみましょう。これは中国語では「スー」(下降調)となります。「子」は呉音・漢音ではシですが、「椅子」では「子」がスとなるように、唐音以降は母音のイがウのように発音されるようになりました(現代中国語zǐ)。これが韓国語では「キム・ヨンジャ(歌手の金蓮子)」のように「子」はチャとなって、ア段に対応しているのです。これと同じく、「四」は韓国音ではサとなって、すなわちサ(韓国語)、シ(日本語)、ス(中国語)と対応しているのです。東アジアにあって古来より密接な関係にありながらも、それぞれに差異がある日本・中国・韓国、まさに「漢字文化圏」にふさわしいサ・シ・スの世界と言えるのではないでしょうか。
 わたしたちは日本にいて日本だけを考えていればいいという時代ではもはやありません。広い視野から自らを相対化させることが、物事を理解しやすくします。一見雑然としているように見える現実を確実に認識し、わかりやすく説明する力が求められているのです。そして、その力とは知であり、その根底にあるのは事実の積み重ねです。種々の雑多な諸現象を対象として、それぞれの共通性、さまざまな差異を見出し、それを分類し体系化することです。つまり、知こそが混沌として見える情況を切り開いていく力となるのではないでしょうか。
 その一つとして、漢字というキーワードで考えてみたのが拙著『日本の漢字1600年の歴史』です。『はじめて読む日本語の歴史』(2010年刊)とともに、ことばの歴史を振り返って、今を見直すきっかけになっていただければ幸いです。

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